案内板より
野田塩ベコの道
藩政時代から明治にかけ野田浜附近には10か所に塩釜があり、直煮法による製塩が行われていました。
野田地方で製塩された「野田塩」は鉄などと共に牛の背に積まれ運ばれました。
牛方は一人で7頭のコティ(3才以上の雄牛)を追って細く険しいベコの道(塩の道)を北上川流域や、さらには奥羽山脈に分け入り沢内・鹿角方面までを交易圏として塩の行商をしていました。
塩の道は海と山を結ぶ血潮の道であり文化交流の道でした。
野田村
江戸時代の野田通りの海岸では、塩ばかりでなく、早くから鉄の生産が行われており、中国地方に次ぐ砂鉄の日本の二大産地として鉄山が各所にありました。このため、塩を煮る鉄釜が容易に手に入り、製塩の歴史を画期的なものにしました。
鹿田(しかた)、粗田(あらた)と言われた野田通りの農民たちは、生きていくための確かな家業として煮塩に精を出しました。それは、北上山地を越せば、塩一升が米一升に変わる価値のあるものだったからです。しかし明治38年からは塩の専売制となり、明治43年にはすべての製塩は廃止されました。
「道の駅のだ」には牛方像及び、観光物産館ぱあぷる内に直煮製塩のジオラマ展示があります。