朽のこる野田の入江の一橋 こころ細くも 身ぞふりにける/平政村朝臣(夫木集巻廿一)
『夫木和歌抄』より、平 政村が平安時代前期の巨大地震「貞観津波」の記録を詠んだ歌。
年経ればかわれるものや 今野田乃(の) 入江もなみの磯と成りけり/高山彦九郎正之
年経ればかわれるものや 今野田乃(の) 入江もなみの磯と成りけり/高山彦九郎正之
高山彦九郎が寛政2年(1790)9月16日、一つ橋を通って野田玉川まで旅をした折に詠んだ歌。
この地 一橋は 通称轟橋、別には高橋、又 途絶えのはしといわれ、往古より歌枕の名所なり
昭和五十八年八月 野田村
南 奎雲書
江戸時代後期の尊皇思想家・高山彦九郎(1747-1793)は、江戸、京都、水戸をはじめ、蝦夷を目指して東北など日本中を歩きまわり、旅を通して様々な人々から学び、庶民の生活の実態など多年にわたり詳細な日記を書きつづけていたそうです。
江戸時代の寛政期に活躍した、傑出した3人として、林子平・蒲生君平とともに『寛政の三奇人』と呼ばれている有名な方です。
現在の群馬県太田市の生まれで、同市には太田市立高山彦九郎記念館があり、また幕府からの迫害を受けながらも全国各地を旅し、最期に久留米の地で自決したことから、その霊を弔うために福岡県久留米市の遍照院にお墓があります。
その高山彦九郎の「北行日記」の中で
『五日町を東に出て、大須賀の一本橋とて、五間計り橋を渡る。誠に木一本打渡し名に応うというへし。是れぞ夫木集改村の詩に
朽残るのたの入江の一つ橋心細くも身そふりにける
とあるは此所なるべし。入り江と思ふは見えず、砂浜の広く南北の山の間十五・六丁もありて、その間は皆砂浜なれば、古くは入江なるべし。予よめる。
年経ればかわれるものや今野田の 入江もなみの磯と成りけり 正之
とぞ・・・・略』
と記されています。
昔は野田の街並みを市日の開催日から『五日町』と呼んでいました。また『大須賀』は浜の呼び名です。『一つ橋』はだいぶ前に撤去されたが、一本の大木の反り面をわずかに削り歩き易く渡り易くしただけの「一本橋」があったとされています。(別名『途絶(とだえ)のはし』『轟き橋』、『高橋』)
歌碑には東日本大震災の津波で流された際の傷跡が残されて、津波の威力を物語っています。公園造成時に改めて設置しなおされました。